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2020 Vol. 3:『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』

岩井克人「欲望の貨幣論」を語る

 

岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』 丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班, 東洋経済新報社, 2020

 

 本書は、NHK BS1スペシャル「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」において貨幣について言説した、岩井克人氏の言葉をその後の会話を加えてまとめたものである。本書、および番組を通じて、岩井氏の現代社会、貨幣への思いが熱く感じられる。
 資本主義社会は、グローバル化の進展により、世界の隅々まで市場で埋め尽くされるようになり、インターネットの発達により、世の中のあらゆる情報が瞬時に共有化されるようになった。この結果、地球全体が一つの資本主義を形成するようになった。これは、自由放任主義(新自由主義)によるグローバル化が資本主義社会を純粋化し、経済危機の可能性と不平等の拡大を招き、自由を尊重することによる安定性の低下を招いた。資本主義社会は、自由が増えれば安定性が減り、安定性を増やすと自由が減ってしまうという自由と安定との二律背反を抱えている。
 この資本主義に対して、二つの見方がある。慣習や規範、規制や税制、監督や法律などの不純物を取り除き、自由放任にすべきという新古典派の考え方と不純物を取り除いて純粋にしてしまうと効率性は増すが安定性が減るという不均衡動学派の考え方である。この古典派の流れを汲む新自由主義が多くの支持を集めた結果、グローバル化が始まり、資本主義を純粋化すればするほど効率性も安定性も高まり理想状態に近づく、という壮大な実験が行わることとなった。この実験は、2008年のリーマンショックにより失敗に終わり、世界大不況に陥った。
 一方、貨幣については、岩井氏の「貨幣論」(1993年)などで記述している、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」という自己循環論法によって成り立っている。貨幣の価値が自己循環論法によって支えられているのであれば、モノである必要はなく、数字だけを流通させるデジタル通貨でもよいことになる。さらに、貨幣が貨幣として流通するためには、モノとして価値はない方がよい。これは、貨幣がモノとして価値を持つと、それは投機の対象となり、流通するよりも蓄積されるようになるためである。
 現在、代表的な仮想通貨となっているビットコインは、発行される貨幣をインターネット上で瞬時に流通する「数字」に置き換えることによって、中央銀行などの不純物が存在しない自由放任主義的な資本主義社会の実現を目指したものであった。だが、ビットコイングローバル資本主義では、社会全体の安定性のために行動する公共的機関が存在しない。このような純粋な資本主義社会は、資本主義社会が持つ本質的な不安定性によって滅びてしまう運命にある。
 そして、本書は最後に古代ギリシャに展開する。古代ギリシャのポリスのような共同体では、モノの交換を正しく行う媒介物として貨幣を必要とした。貨幣とは、モノを手に入れるための手段であったが、やがて人びとは、あらゆるモノを手に入れられる可能性を与えてくれるものとしての貨幣を欲望するようになる。つまり、交換のための手段であった貨幣が貨幣そのものを手に入れることが目的となった。この手段と目的の逆転が発生することにアリストテレスは気がついた。さらに、アリストテレスは、貨幣それ自体の無限の増殖を求める経済活動が行われることにも気がついた。この経済活動は、資本主義そのものである。古代ギリシャは既に貨幣を中心とした資本主義社会であった。そして、「無限」という言葉は、自足の状態に達することがなく、不完全な状態を意味した。アリストテレスが気がついたものは、ポリスを維持するための媒介物として必要とされる貨幣が、無限の増殖を求める資本主義を生み出し、その結果、ポリス自体の自足性を掘り崩してしまう、という「逆説」であった。
 20世紀の終盤に産業資本主義がポスト産業資本主義に転換し、金融を中心とした商業資本が価格や利子率の差異を求めて地球全体に資本移動を行うようになった。つまり、グローバル資本主義の登場である。これに伴い、不純物などの外部が弱まり、純粋に自由放任主義的な資本主義が成立しようとしている。その結果、金融危機、所得格差、地球温暖化などにより、資本主義に内在している不安定性、不平等性、不可逆性が顕在化してきている。外部を失ったグローバル資本主義は、アリストテレスの逆説を再発見しつつあるのだ。