現代資本主義を考える
NHK BS『欲望の資本主義』シリーズなどのプロデューサーの丸山俊一氏の『これからの時代を生き抜くための資本主義入門』(丸山俊一著、2025、辰巳出版)から現代資本主義を考えてみようと思う。
資本主義は、「企業や個人が資本を持ち、利潤を求めて自由に市場で商業活動ができる経済体制」というのが一般的な定義といえる。つまり、企業はもとより、個人であっても常に利潤を求める(欲望に導かれているかもしれないが)のが資本主義である。
戦後の日本経済は、高度成長に支えられ、「三種の神器」と呼ばれる生活家電などのモノへの執着・欲望の産業資本主義の時代であった。その後、二度にわたるオイル・ショックには、「工業製品を中心としたハードな商品の生産と消費によって成り立っていた高度成長の産業資本主義の時代からソフトやアイデア、サービスなどの商品へと人々の欲望が移り変わっていく転換点」となった。そして、Windows95の登場を契機としたPC、およびその後の携帯電話/スマートフォンの普及によるデジタル化とグローバル化に伴い、産業資本主義の時代からポスト産業資本主義の時代に完全に移っている。つまり、「モノ」の時代から「コト」、さらには「トキ」へと消費の対象も変化してきている。
そして、デジタルテクノロジーの急激な発展により、「有形資産」から「無形資産」の時代に入ったのだ。「有形資産」とは、工場設備や機械設備、あるいはパソコンといったモノとして認識される資産、資本のことである。一方、「無形資産」とは、特許や著作権のような知的資産や人が持つ技術や能力のような人的資産に代表されるモノとしての実体を持たない資産のことだ。現代社会は、ポスト産業資本主義からさらに進んで、無形資産を中心とするデジタル資本主義の時代になった。これにより、モノからコト、コトからトキ・イミへと変化が起こっている。
さらに、ChatGPTをはじめとする生成AIの急速な発展が現代社会に多大な影響を与えている。『生成AIで世界はこう変わる』(今井翔太著, SBクリエイティブ, 2024)によれば、これまで、「特別なスキルを必要としない賃金が低い仕事であるほど、コンピュータ/AIによる自動化の影響を受ける可能性が高い」と考えられてきたものが、「高学歴で高いスキルを身につけている者が就くような賃金が高い仕事であるほど、コンピュータ/AIによる自動化の影響を受ける可能性が高い」という主張になってきている。そして、大多数の職業が生成AIの影響を受けることになるようだ。このため、今後どのように生成AIと共存していくのか、ということも考える必要があるようだ。
おそらく現代社会は、生成AIによって大きく変化していくことであろう。そのような状況において、我々は、様々な変化に対応できるように準備をしていなければいけないのだ。いろいろなものを俯瞰してみるような広い視野と変化に対応していく柔軟な発想ができる素地を持つことが必要なのであろう。
生成AIについて
ここ数年、OpenAIのChatGPTやGoogleのGemini、MicrosoftのCopilotの登場により、生成AIの話題が取り上げられない日はなくなっている。そこで、『生成AIで世界はこう変わる』(今井翔太著, SBクリエイティブ, 2024)を読んで、私見を書いてみようと思う。ここで何も断りがないものについては、私の個人的に考えたものである。
かつて(2019年前後)、人口知能が人間の能力を超えるシンギュラリティという現象が起こるのかどうか、もし起こるのであれば、それはいつ頃なのか、ということが盛んに議論された。シンギュラリティとは、「技術的特異点」と言われ、「自律的なAI(人口知能)が自己フィードバックで改善を繰り返し、人間の知能を超える瞬間が訪れるという仮説」を指す。アメリカの未来学者のレイ・カーツワイル氏は、実際にシンギュラリティに到達するのは、2045年と予測している。(シンギュラリティとは? いつ起こるのか、今後どうなるのかを分かりやすく解説|ビジネスブログ|ソフトバンク)
このようなAIに関する議論や予測を一変させたのは、生成AIである。今井氏の書籍によれば、生成AIとは、「新たに文章や画像、音声などをつくり出すことができる人口知能技術の一種」と定義される。2012年頃から始まった第三次AIブームでは、「大量のデータを与えながら、機械が自動的に問題の解き方を学習する「機械学習」のアプローチが主流」となり、「この機械学習を、人間の脳をコンピュータ上で再現した「深い(Deep))」人工ニューラルネットワークで行うのが、「ディープラーニング」で」あり、生成AIは、このディープラーニングによって実現されている。
これまでは、今井氏の書籍にもあるように、「特別なスキルを必要としない賃金が低い仕事であるほど、コンピュータ/AIによる自動化の影響を受ける可能性が高い」というのが長年にわたり共有されてきた主張であった。2013年に発表されたオックスフォード大学のカール・フレイとマイケル・オズボーンによる世界的に有名な論文「雇用の未来」でもこの主張がされている。 だが、生成AIの登場により大きく様変わりし、「高学歴で高いスキルを身につけている者が就くような賃金が高い仕事であるほど、コンピュータ/AIによる自動化の影響を受ける可能性が高い」という主張になっている。2023年にOpenAI社などが発表した論文「GPTs are GPTs」の主張である。この論文では、「影響を受けにくいとされる職業は、ほとんどが手足を動かす肉体労働を行うもの、いわゆるブルーカラーと呼ばれる職種です。一方、影響を受けやすいとされる職業は、エンジニアや研究者、デザイナーなど、高度な判断力や創造的な思考が必要とされるもの、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる職種です。」としている。たった10年でコンピュータ・AIにできること/できないことの前提が生成AIの登場により、ひっくり返ってしまったのである。
生成AIを日々の業務に組み込むことにより、これまで人間がやっていた多くのことが自動化され、より短時間でこなすことができるようになる。この結果、人間が得ることができる「自由な時間」が人間に創造性や独創性を発揮させ、新たな発見や発明、芸術的な表現を創出する源泉となる。生成AIは、今後も我々の想像を超えるレベルで進化していくであろう。前述のシンギュラリティに言えば、生成AIの登場がシンギュラリティに到達することなのか、あるいは、その後の生成AIの進化がシンギュラリティなのか、いずれにしてもシンギュラリティには既に到達しているのではないか。人間は、この生成AIと共存し、新たな人類の文化を確立していくことができるのか、あるいは、人類が創造するものとは別の世界になっていくのか。我々も未来は自分の手でコントロールできるように、自分自身の考えを持ち、行動していくことが重要だと考える。
2025-Vol. 1:『「世界の終わり」の地政学』- 野蛮化する経済の悲劇を読む –
『「世界の終わり」の地政学』- 野蛮化する経済の悲劇を読む –
本書は、ピーター・ゼイハン氏が自身の専門分野である地政学と人口統計学に基づいて今後の世界を分析したものである。本書の中で、地政学とは場所の学問であり。私たちのいる場所が、私たちを取り巻くあらゆるものをいかにして生み出してきたのかを探求するものであり、人口統計学は、人口構造の学問である。と説明されている。
本書のタイトルである「世界の終わり」とは、これまで第二次世界大戦時の頃から巨大な経済力、政治力、および軍事力を背景にアメリカが「世界秩序」を維持していた。この「世界秩序」が終わり告げ、新しい世界に変わることを意味する。昨今のアメリカ・トランプ大統領の発言から本当に「世界秩序」を維持することを放棄する可能性が出てきている。
現在のグローバル化は、世界秩序が守られている前提で成立しているものであり、世界秩序が崩壊したあとでは、国際間でのモノの移動(取引)が保証されない状態となる。このモノの移動を保証するためには、モノの移動するあいだ、軍事的に保護することが必要となる。現在のグローバル社会のような長距離にわたるモノの移動を軍事的に保護することができるのは、アメリカだけである。この点において、膨大な軍事力を保有するアメリカは他国に対して、大きな優位性があるようだ。
本書は、世界秩序が崩壊し、世界が脱グローバル経済に転換することを前提に、「輸送」、「金融」、「エネルギー」、「工業用原材料」、「製造業」、「農業」の各分野でどのような変化が起こるか、について、著者の専門分野である地政学と人口統計学の観点から分析をしている。
本書全体を通じて、著者は、地政学的にも、人口統計学的にもアメリカが大きな優位性を持っているとしている。アメリカが有する多くの水路や広大な土地などが地政学的に大きな優位性をもたらしているようだ。また、アメリカは現在でも人口は増加傾向にあり、人口の面からも優位性をもたらしている。一方、アメリカ以外の国々は、アメリカ以上に地政学的に優れている国はなく、また、既に多くの国々は、人口減少のトレンドに入っている。フランス、ドイツなどのヨーロッパ各国や日本、韓国などの東アジア諸国は、急激な人口の減少傾向に入っており、今後将来的に大きく成長することは見込めない。
本書の予測が必ずしも当たることが保証されているわけではない。ただ、現在のアメリカ中心の世界秩序が終わりを告げる可能性はある程度高いであろう。これにより、表面的に保たれていたと思われる平和も崩れ、軍事紛争も増えていく可能性もある。
そうした中、我々は世界をどのように考えればよいのだろうか?
アメリカに代わる世界秩序を維持する仕組みを考えるのか?
脱グローバル経済への準備をするのか?
いずれにしても、我々自身が世界をどのようにしていくかを問われているのであろう。
2024-Vol 4:『これから「正義」の話をしよう – いまを生き延びるための哲学 -』
『これから「正義」の話をしよう – いまを生き延びるための哲学 -』 マイケル・サンデル著, 鬼澤忍訳, ハヤカワ文庫, 2011
本書は、著者によるハーバード大学の人気哲学講義 “Justice”の書籍版である。
「正義」とは、国語辞典によると、「正しい道義。人が従うべき正しい道理」などと解説され、広義の意味では、「日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般」を意味する。もう一つ似通った言葉に、「善」がある。善は、「道義に適っていること」と解釈されることが多いので、善の元にある道義を指す、正義とは異なる概念を指すことばと考えられる。
サンデルは、本書の中で、正義に対する三つの考え方を提示している。
- 正義は効用や福祉を最大化すること
- 正義は選択の自由の尊重
- 正義には美徳を涵養することと共通善について論理的に考えること
これら三つの考えに対して、「正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない」として、三つ目の考え方を支持している。
ジェレミー・ベンサムが確立した功利主義の理論では、快楽(効用)の最大化と苦痛の最小化が原理の根底にある。つまり、効用を最大化することが功利主義哲学の正義なのである。功利主義的に、正義とは幸福の最大化を意味すると考えるならば、富の再分配が支持される。
ここで、貧困者と富裕者がいる現代の経済的不平等に関して、功利主義的に幸福の最大化が正義と考えるのであれば、貧困者を助けるために富裕者に課税し、富の再分配をすることが支持される。これに対して、強制や不正行為によってではなく、市場経済での選択を通じて生じた経済的不平等なのであれば不公正ではなく、貧困者を助けるために富裕者に課税するのは、基本的権利が侵害されると考え、反対する人びともいる。このような人びとは、リバタリアン(自由至上主義者)と呼ばれる。リバタリアンは、どの人間も自由への基本的権利を有すると考え、経済効率ではなく人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。
現代の正義論は、公正さや正しさに関する問いを、名誉、美徳、道徳的功績をめぐる議論から切り離し、すべての目的にとって中立的な正義の原理を探り、人びとがみずから目的を選び追求できるようにしようとする。これに対して、アリストテレスは、正義は目的にかかわるものであり、名誉にもかかわるものであると考える。このため、アリストテレスによれば、正義は中立的なものではなく、必然的に、名誉、美徳、善き生をめぐる論争になると考える。
サンデルは、カントやロールズの考えも紹介している。単に、「正義」と言っても、その人の主義・思想により、正義が異なっているのだ。人間は、これまで二度の世界大戦を経験しているが、愚かにもまだ戦争はなくなっていない。戦争の当事者にとっては、自身の正義に基づいて、戦争を実行・継続しているのであろう。そこで、サンデルは、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくり出すことによって、正義にかなう社会が実現すると結論づけている。
たとえ不一致があったとしても、対立するのではなく、受け入れる寛容さを持つことが重要なのであろう。
2024 Vol. 3:『さらば、欲望 – 資本主義の隘路をどう脱出するか -』
『さらば、欲望 – 資本主義の隘路をどう脱出するか -』 佐伯啓思著, 幻冬舎, 2022
本書は、思想家である著者の社会時評と文明論をまとめたものである。書かれた時期は、世界がグローバリズムの矛盾が噴出するなか、新型コロナに翻弄された時期にあたる。
平成の時代は、ソビエト崩壊などによる冷戦の終結からはじまった。この冷戦以降の世界は、巨大なグローバル市場の形成、世界的な民主主義の進展、およびIT革命と金融革命である。情報・金融中心のグローバル化は、きわめて不安定な経済をもたらし、トランプの保護主義に帰結した。そして、グローバリズムは、激しい国家間競争を生み出し、中国の台頭と米中の新たな冷戦を引き起こした。
この30年間の日本は、「改革」という名の「改悪」を繰り返してきたようだ。日々、多くの大人や若者は、スマホの画面を見入る光景が見られる。この結果、過度な情報化と競争社会が社交というものの作法を失わせた。さらに、行き過ぎたPC(ポリティカル・コレクトネス)が、あまりに単純化された正義が絶対化され、反論を赦さない、という風潮ができてしまったのだ。国語教育改革により、漢字の使用制限や難解な文章が忌避され、読みやすく短い文章が横行するようになり、読解力と表現力の低下をまねいた。そもそも読解力とは、著者の意図を正確に読み、かつそれを自分なりに解釈することである。著者の意図を正確に読み取るためには、それなりの経験と想像力が必要となる。
新型コロナウイルスによる世界的なパンデミックは、現代文明の脆弱さを浮き彫りにした。この現代文明は、グローバル資本主義、デモクラシーの政治制度、情報技術の展開という3つの柱を持っている。このグローバリズムが新型コロナの世界的なパンデミックを引き起こし、新型コロナへの対応に関する政府の説明不足やマスコミ各社の新型コロナに対する矛盾した報道など、情報化とデモクラシーが新型コロナのパンデミックを増幅したのではないか?このパンデミックが人々に多大な経済的打撃を与えたのであれば、我々はそのような非常に脆弱な基盤の上にのっているということである。
これまで資本主義がヨーロッパで急激に活性化した15世紀には、地球的規模での空間のフロンティアの拡張があり、その結果、ヨーロッパに巨大な富をもたらした。そして、この空間的フロンティアの開拓に続いて、20世紀には、技術革新や広告産業が大衆の欲望を刺激することによる工業製品の大量生産・大量消費を生み出す大衆の欲望フロンティアの時代となった。その後、80年代以降は、グローバル化で発展途上国に新たな市場を求め、新たな金融商品や金融取引に利潤機会を求め、ITという新技術にフロンティアを求めたが、現在ではほとんど富も利益ももたらさなくなりつつある。つまり、現在の新たなフロンティアは限界に達しつつあるのだ。
このように見てくると、飽くなき利益を追求する資本主義は、フロンティアを拡張することによって、富や利益を手に入れていた。これは、ウォーラーステインの言う世界システム論の周辺から中核への利益の移転が行われていたということだ。だが、現在は、拡張できるフロンティアがなくなってしまったのだ。資本主義が、これまでのような成長をしていくためには、全く新たなフロンティアが必要である。IT技術をベースとした、サイバースペースは新たなフロンティア足りえるのだろうか?それとも、現在は存在しない、全く新たなフロンティアが登場するのだろうか?
2024 Vol. 2:『(新版)史的システムとしての資本主義』
『(新版)史的システムとしての資本主義』 I.ウォーラーステイン著, 川北 稔訳, 岩波書店, 1997
本書は、I.ウォーラーステインの壮大な歴史理論である、「世界システム論」の骨子をかみ砕いて紹介したものとされている。だが、「世界システム論」自体を理解することはなかなか難しい。
本書は、「資本主義とは、歴史的な社会システムである」という文章ではじまる。
資本主義という言葉は、資本に由来したものであり、資本主義にとって、資本がキーとなる構成要素になっている。史的システムとしての資本主義と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、資本が投資されるということである。つまり、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用されるものであり、過去の蓄積は、いっそうの蓄積のために用いられることによって資本たりえるということだ。そして、史的システムとしての資本主義とは、諸々の生産活動を統合する場であり、時間と空間の限定された統合体である。そこでは、あくなき資本蓄積こそが重要な活動のすべてを支配する目標ないし、法則となっている。
資本主義において、いっそうの資本を得るためには、労働力を得て商品を生産し、それを売り捌く必要がある。そして、商品は売り手が要した総コストよりも高い価格で売られなければならないばかりか、その差額が売り手自身の生存に必要とする金額を越えている必要がある。さらに、利潤にあたる部分もなければならない。この利潤を得たものがしかるべきときに投資できる状態になることによって、資本の循環が完成する。
資本主義的なシステムでは、いかなる理由であれいったん格差が生じるとその格差はしだいに拡大・強化され定着していく。そして、この格差による不等価交換は、あくなき資本蓄積に向けた生産の諸過程が統合された社会的分業体制において、資本主義の中に隠蔽されていた。資本主義では、当初は地理的な格差は大きくないものの、総利潤(余剰)の一部がひとつの地域から別の地域に移されていくことによって、格差は広がっていく。ここで、余剰の一部を失う地域は、「辺境」ということができ、余剰を得る地域は、「中核」ということができる。
資本主義は、あくなき利益を追求する活動である。そこに格差が生じれば、利潤が極大するように行動する。一般的な企業活動においても、価格の低いところから仕入れ、高く売れるところに売るという活動を行っている。こうして手に入れた利潤を資本という形で蓄積し、その資本をさらなる利益を得るための投資に回す。ウォーラーステインの世界システム論は、「中核」、「半周辺」、「辺境(周辺)」として、国よりも大きな括りでモデル化している。また、「中核」の中でも、資本家と労働者の立場からは、労働者は資本家に多くの利潤を搾取されている。
既に、ウォーラーステインは2019年に亡くなっており、現在のFAANGが支配するサイバースペースをどのように考えていたのか、世界システム論は完成されたものなのか、疑問は解消されることはないであろう。
2024 Vol 1:『世界システム論講義 – ヨーロッパと近代世界 -』
『世界システム論講義 – ヨーロッパと近代世界 -』 川北 稔著, 筑摩書房, 2016
世界システム論とは、ウォーラーステインが提唱した歴史理論である。世界システム論では、近代世界を一つの巨大な生き物のように考え、近代の世界史をそうした有機体の展開過程としてとらえる見方である。つまり、近代世界は一つのまとまったシステムであることから歴史は「国」を単位として動くのではなく、すべての国の動向は、世界システムの動きの一部でしかないのだ。
近代世界システムは、十六世紀に、西ヨーロッパ諸国を「中核」、ラテンアメリカや東ヨーロッパを「周辺」として成立した。ここで、「中核」とは、世界的な規模での分業体制から多くの余剰を吸収できる地域であり、工業生産を中心とする地域である。これに対して、「周辺」とは、食糧や原材料の生産に特化させられ、「中核」に従属させられる地域のことである。さらに、世界システムには、全体が政治的に統合されている「世界帝国」と政治的には統合されていないが、大規模な地域間分業によって経済的に結ばれている「世界経済」とがある。近代世界は、全体が世界規模で資本主義的な分業体制にある「世界経済」の原理で成り立っている。
こうした歴史の流れの中、十八~十九世紀には、世界システム論の観点から見て、「周辺」に位置付けられた地域の従属状態からの脱却を目指す、「半周辺化」の運動(革命)が起こった。「周辺」と位置付けられた従属地域は、いったん支配的な中核国との関係を断ち切らねば、不等価交換による搾取と従属による社会・経済の構成の歪みを生む圧力を受けるため、その立場から脱却することができないのだ。
転じて、日本を見てみると、江戸時代の鎖国制度の結果、世界システムから切り離された状態であり、その後の明治維新による開国後も、日清戦争に勝利することにより、中核国から支配されることを回避することができた。この結果、世界システム上の地位を高めることができ、「半周辺」の地位にとどまることができたのだ。ただ、戦後の日本は、アメリカの従属国になってしまっているようにも見えるが、、、
これまで資本主義は、「中核」、「周辺」、「半周辺」から成り立っていたものが、もともと「周辺」に位置付けられていた、植民地の消滅や新興国の経済発展により、「周辺」の拡大が難しくなっている状況であった。「周辺」が拡大できなくなり、資本主義の発展に陰りが見えることは、既にマルクスが『資本論』で「資本主義は行き詰まる」と表現していた。
現在は、ITの急速な発展により、FAANG(Facebook/Apple/Amazon/Netflix/Google)と呼ばれるビックテックが利益を独占するようなサイバーサイバー空間が現れている。このサイバー空間は、これまでの「周辺」に代わるものとして、「中核」に利益をもたらすものなのであろうか?それともこれまでの「中核」に取って代わり、搾取と従属により、莫大な利益を上げ続けることになるのであろうか?
失われた30年を過ごした日本は、かつての輝きを取り戻すことができるのだろうか?それともこのままゆっくりと沈んでいくことになるのだろうか?
ひとえに、我々ひとりひとりの行動にかかっているのではないだろうか?






