TechnologyとIntelligenceに憧れて

外資系ネットワーク・エンジニアの独り言。

『欲望の資本主義 2022夏 特別編 -メタバースの衝撃 デジタル経済のパラドックス-』

 

『欲望の資本主義 2022夏 特別編 -メタバースの衝撃 デジタル経済のパラドックス-』 BS1スペシャ

 

 今年の元日に放映された、『欲望の資本主義2022』の特別編である。今回は、メタバースとデジタル経済とテーマに世界の知性が語っている。既にメタバースは、仮想空間で自身が行動できる空間として、多くのサイトが立ち上がっており、資本主義の最前線になりつつあるようだ。勝者が利潤のすべてを総取りするメタバースの世界で勝者は誰なのだろうか?

 テクノロジーの進化により、現代はすべてがバーチャルの世界になっていこうとしている。既に、都市の画像は、仮想世界に完全に再現することにできるようになっている。すべてがバーチャルの世界になり、リアル社会をバーチャル社会で拡張するようになっているのだ。バーチャルの世界になることにより、現実世界に存在する時間や距離の制約がなくなっていく。この制約がなくなることにより、これまでタイムゾーンの違いや物理的に距離が離れていることにより、接点を持つことができなかった顧客と接点を持ち、新規市場を開拓していくようなメタバースをビジネスに活用していく場面が増えていくことであろう。メタバースにより、モノの受け渡しによる人との接点からイベントのような物事での接点に、そして、人と人の共有体験へと発展していく。今後は、メタバースを本当に理解している人のみがこの世界をリードしていくことになり、一握りの仮想空間のみが生き残るであろう。

 現在、国家経済を表す指標としてGDPが使用されている。このGDPには、家事労働、環境破壊や無形資産のような見えない資本は含まれていない。あくまでもGDPは物質的に見えるモノを対象とした指標である。このGDPでは、デジタル化が進んだ現代資本主義を把握することは難しいのではないか?

 Web3やメタバースが発展したデジタル資本主義では、どのような世界が形作られているのだろうか?

 おそらく、欲望とテクノロジーが繋がれ、現代のGAFAを中心とした中央集権的な世界ではなく、仮想空間に分散型で平等な世界が作られていくのではないか?

 ここで、成田悠輔氏は、貨幣は欲望の対象であり、経済活動を評価する単純化装置である。そして、経済活動のデータが貨幣であり、実体と記録(データ)の乖離がお金の価値である、と主張する。さらに、ファーガソン氏は、デジタル化が進むことにより、投機的なキャッシュフローが増加し、バブルの発生と崩壊を繰り返す危険性が高まる、と主張する。

 現代資本主義は、モノの世界からサービス、デジタルへの変化してきた。そして、現在は、AIやメタバースが普及するデジタル社会になりつつある。現在がデジタル経済に移行していくことにより、さまざまな雇用も奪われていくことになる。これまでの富を生むルールが変わっている中で、われわれが焦点を当てるべき経済の本質はGDPではなく、人、つまり国民である。このまま資本主義経済が偏重され、不平等が拡大していけば、人類は絶滅する。現代は、デジタル経済を技術―人間、社会―個人のように複眼で思考していくことが必要になってくるであろう。デジタル社会を生き抜いていくために必要なものは何であろうか?

仮想空間に平等な世界を作ることはできるのだろうか?

2022 Vol.10:『脱成長と欲望の資本主義』

 

 

『脱成長と欲望の資本主義』 丸山俊一 + NHK「欲望の資本主義」制作班, 東洋経済新報社, 2022

 

 本書は、NHK BS1スペシャルの「欲望の資本主義」シリーズの書籍化されたものである。毎年出版を重ね、今回がシリーズ6作目である。

 まず、格差や気候変動などの「資本主義の危機」について、斎藤幸平氏とトーマス・セドラチェク氏の対談、というよりも本の帯に記載の「激論!」というべきか。

 現代は、産業革命と資本主義の勃興し、その後の資本主義の加速的な拡張により文明生活を脅かすほどの環境危機が生じるようになってきた。これは、人類の化石燃料の大量使用が地球全体に変化をもたらし、地球環境に大きな影響力を与えてしまうようになった。このような「資本主義の危機」に対して、斎藤氏は、既存のシステムが解決策を提供できないのであれば、今のシステムの外に求めるべきである。つまり、資本主義からの転換が求められていると主張する。これに対して、セドラチェク氏は、世界規模の問題の解決策を見つけるのは、いつも資本主義国であるとして、あくまでも資本主義の中で解決策を求めると主張する。

 さらに、生態学的危機に直面している現在、地球環境を考慮し、成長にブレーキをかけ、新たな経済として「脱成長コミュニズム」に向かうべきと斎藤氏は主張する。これに対して、共産主義社会を経験しているセドラチェク氏は、一旦成長にブレーキをかけることには賛成するものの「コミュニズム」に反発する。斎藤氏が使う「コミュニズム」という言葉からほぼ議論は止まってしまった。現在の「資本主義の危機」を資本主義の中と外に解を求める立場から議論を深めることができたと思うと非常に残念である。斎藤氏が「コミュニズム」という言葉に固執し過ぎたようにも感じる。

 次に、ミラノビッチ氏は、著書の中で、現代の資本主義はアメリカに代表される「リベラル能力資本主義」と中国に代表される「政治的資本主義」という概念を提示した。リベラル能力資本主義とは、現在我々が経験している資本主義のことであり、今後、誰もが資本家でありかつ労働者でもある民衆資本主義社会に変化していく可能性がある。この民衆資本主義では、誰もが他社と同じ割合で資本と労働から所得を得られるので、格差は小さくなる。もう一つの可能性として、高い資本所得と労働所得の両方得るエリートも存在する。このエリートが自らの優位性を子供に継承し、お金の力で権力を握り政治プロセスを支配していく「金権政治」に向かう道である。この金権政治は最終的に政治的資本主義に向かうことになる。

 ズボフ氏は、資本主義を形成する様々な要素とデジタル経済を形成する要素を組み合わせた経済論理となる「監視資本主義」の観点から民主主義の危機を説く。監視資本主義は、ネットワーク上のあらゆるサービスのユーザーに、サービスの対価としての生活の情報、つまり、人々の個人的な経験に関する情報や知識を請求し収集する。この考えをもとに、GAFAMなどの監視資本主義企業は、人々の生活のあらゆる場面から情報を収集・抽出して人々の行動を予測し、それを販売するビジネスモデルを確立した。我々は、個人の生活情報や経験が無断で活用されることに許可を与えているわけではなく、我々には、「認識権」とも言うべき、何を公開し何を秘密にするか、を自分で選択する権利があるはずである。問題なのは、監視資本主義企業が人々の認識権が侵害されているにもかかわらず、情報の奪取が続けられ、情報を力に人々の行動を自らの利益になるように誘導・修正していることである。

 このように本書の内容を並べてみると、現代資本主義は、格差、地球環境、気候変動、監視社会など多くの問題を抱えている。このうち気候変動を含む地球環境については、斎藤氏の言う「脱成長」が実現できれば改善していくものと思われる。だが、資本主義は、人々の飽くなき欲望を満たすために成長志向である。このため、脱成長の実現は非常に難しいと言わざるを得ないのではないか?また、格差について、ミラノビッチ氏は、現在のリベラル能力資本主義から民衆資本主義に移行できれば、格差は縮小すると主張するが、富裕層は既得権益の維持に全力を尽くし、金権政治、ひいては政治的資本主義の方向に向かう可能性がある。この政治的資本主義では、現在の中国のような監視社会に向かう可能性もあり、これまで以上に監視資本主義が進んでしまうかもしれない。

 本書は、今後の資本主義について考えてみる機会を提供してくれている。。。。

 

2022 Vol. 9:『働く悩みは「経済学」で答えが見つかる -自分をすり減らさないための資本主義の授業-』

 

 

『働く悩みは「経済学」で答えが見つかる -自分をすり減らさないための資本主義の授業-』 丸山俊一著, SBクリエイティブ, 2022

 

 本書は、University of Creativity (UoC) 創造性の大学を舞台に、歴史上の「巨人」たちの思考から現代に生きる社会人が抱える悩みへの答えを導こうというものである。

 マルクスによると、資本主義では、生産手段を持つ資本家と持たない労働者という二つの階級が存在し、資本家は労働者から生産物に必要な労働力以上の価値を搾取する結果、その差が圧倒的なものとなる。労働は、人間が自分で考える構想の作業(精神的労働)と実際に自らの身体を動かして行う実行の作業(肉体的労働)が統一されたものであったが、構想(精神的労働)と実行(肉体的労働)に分離され、資本家が構想を独占し、労働者が実行のみを担うことになったしまった。この結果、単純作業を繰り返す労働者は知性を行使する機会を奪われ、精神が毀損されてしまうのだ。

 アダム・スミスによると、人々の目的は自分の利益であり公益ではないが、私益の自由な追求は意図しない結果として公益を促進する。ひいては、市場の「見えざる手」によって、調整されるという考えにつながる。

 人間は、他人から観察されるという虚栄心に基づいて、より大きな富とより高い地位、そして他人よりも大きな富と高い地位を手に入れようという野心を持つ。この野心と虚栄心が2020年代の現在の状況において、資本主義と倫理の関係を複雑にしている。さらに、カントによると、ある者がある目的をかなえようとする時には、内的な価値である尊厳を持つ。尊厳は価格と比べて見積もることなどできないものであり、自らの尊厳を損なうことはしないのが、資本主義における最低限の倫理だと、主張する。

 21世紀の初頭ぐらいまでは、ネットの技術は世界をフラット化し民主主義を進め、一般庶民に幸せをもたらすことが期待されていた。だが、実際には、現代のデジタル技術は、社会全体の発展というよりは、格差、分断を生んでいるようだ。そして、情報を処理する速度は飛躍的に高める技術や人工知能など人間の代わりをする技術など新しいテクノロジーが急速に広まっているものの経済の成長のエンジンになると期待されていたにもかかわらず、停滞を招いている。さらに、現代のデジタル技術が駆動するポスト産業資本主義は、労働者から搾り取るものが体力から創造力(知力)に、つまり、商品化の対象が、体力から知力へと社会構造の変化をもたらした。ここでの主力商品は、「形のない資本」、つまり、無形資産である。

 本書では、現代の社会人が抱える悩みについて、知の巨人たち、とりわけ経済学の巨匠を中心として、解き明かそうとしている。

多くの人々の悩みは、労働を含め生活のすべてにおいて、疲れを感じるということではないだろうか?大多数の人々は、SNSを使用している。ある意味、このSNSはGAFAMが作りだした世界であり、負の感情や欲望も含めた我々のありとあらゆるものがビジネスの対象とされてしまっている。そして、我々はSNSにより、他人から観察されている側面もある。我々は、個人により強度に違いはあるが、虚栄心、野心、さらに欲望を内在しているものである。現代は、自身の感情に折り合いをつけながら、様々な要素を総合的に考慮できる視野の広さと合成の誤謬に陥らない複眼的な思考が重要になる時代になってきているのだ。

 

2022 Vol. 8:『資本主義だけ残った -世界を制するシステムの未来-』 

 

 

『資本主義だけ残った -世界を制するシステムの未来-』 ブランコ・ミラノヴィッチ著, 西川美樹訳, みすず書房, 2021

 

 人間は、1つのものに収斂するのではなく、複数のものを対立軸として形成する傾向にあるようだ。1989年のベルリンの壁崩壊、それに続くソ連の崩壊により、資本主義と共産主義という対立軸がなくなった。そして、本書のタイトルにある、「資本主義だけ残った」という状況となった。だが、この資本主義は1つの社会経済システムではあるが、2つの異なるタイプの資本主義があるようだ。2つのタイプの資本主義とは、「リベラル能力資本主義」と「政治的資本主義」の2つである。

 本書では、資本主義を「生産の大半が民間の生産手段によって行われ、資本が法的に自由な労働を雇用し、調整が分散化されたシステム」と定義している。そこに、「能力主義」と「リベラル」が取り込まれた。「リベラル能力資本主義」とは、モノとサービスがいかに生産され交換されるか(資本主義)、それらが個人間でいかに分配されるか(能力主義)、社会的移動性がどれくらい存在するか(リベラル)にかかわるものと定義される。このリベラル能力資本主義の代表はアメリカである。リベラル能力資本主義では、総所得における資本所得の割合が上昇傾向となり、比較的少数の資本から高い割合で所得を得る裕福な人々を生み出す。この結果、個人間の所得の不平等は拡大していく。さらに、獲得した優位性は世代間に継承され、不平等が是正されることはない。このことは、教育や職業も機会の平等性も失われている。つまり、アメリカン・ドリームを実現する可能性はますます低くなっているのだ。

 「政治的資本主義」は、経済的利益を得るために政治的な力を使用することであり、この政治的資本主義を実践する代表は、中国やヴェトナムである。政治的資本主義では、a)官僚が高い経済成長を実現し、この目標を達成する政策を実行することを主たる義務とする、b)法の縛りがないこと、そして、c)国家は国益に基づく政策に従い、必要とあらば民間部門を統制する自律性を保持していることが特徴である。だが、この政治的資本主義は、二つの矛盾が内在している。a)高スキルを持つテクノクラート(官僚)のエリートはルールに従い、合理的なシステムの枠内で働くよう教育を受けているにもかかわらず、法を恣意的に運用する環境で働かざるをえないのだ。さらに、b)不平等を拡大させる腐敗が存在する中で、統治を正当なものとするためには、不平等を抑制する必要があるのだ、腐敗は、政治的資本主義に固有のものであり、あまりにひどくなれば、経済政策の実行力が損なわれ、政治的資本主義を維持する社会契約の要の部分の崩壊を招くのだ。

 政治的資本主義の代表は中国であると記載してが、中国は本当に資本主義なのだろうか?a)社会で生産の大半が民間所有の生産手段を用いて行われ、b)労働者の大半が賃金労働者であり、c)生産や価格設定についての決断の大半が分散されたかたちでなされている、ことが資本主義の条件となる。この条件のすべておいて、現代の中国は資本主義に該当する。

 今後、資本主義は、どのようなものになっていくのであろうか?現在は、超商業化資本主義社会以外の選択肢はなさそうである。超商業化資本主義とは、生産と家庭の領域の境がなくなり、家庭内にも外の市場原理が働くようになる世界である。家庭内の掃除や修理、庭仕事や子育てなど多くの活動が商品化され、アウトソーシングされるようになってきている。そして、超商業化資本主義社会では、商業化社会の繁栄に必要な貪欲な精神を持つ一方で、道徳観念の欠如が避けられなくなる。

現代社会は、40年以上にわたる新自由主義政策により、大きな格差を生み出している。現代の道徳感、倫理感の欠如は、世の中の格差拡大の結果なのか、格差を生み出す要因なのか。いずれにしても、日本は世界に先駆けて超高齢化社会への突入し、格差が拡大する中、景気の低迷と物価上昇というスタグフレーション的な状況に陥っている。このような社会をどう生き抜くか、人々の行動が試されているのではないだろうか?

 

2022 Vol. 7:『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』

 

『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』 成田悠輔著, SBクリエイティブ株式会社, 2022

 

 本書は、停滞と衰退の雲が覆う日本において、選挙や民主主義をどうデザインすればいいか考え直し、色々な改造案を示すことによって、政治や選挙、民主主義のルールを作り変えることを考えることを目的としたものである。

 人の能力や運や資源は不平等なものであり、特に技術や知識や事業の革新局面においてこそこの不平等が活躍する。資本主義では、この能力や運や資源の格差がさらなる格差に変換される。ここで生じた格差に対する凡人たちの嫉妬を正当化し、資本主義の暴走をなだめつつ、パイの分配を行うのが民主主義であった。これまでは、資本主義と民主主義が表裏一体としてバランスされていたものが今世紀に入ってバランスが崩れてしまった。この結果、インターネットやSNSの浸透に伴って、民主主義の「劣化」が起き、閉鎖的で近視眼的になった民主国家では資本投資や輸出入などの未来と他者に開かれた経済の主電源が弱ってしまった。21世紀の初頭では、民主国家ほど経済成長が低迷し、さらに、コロナ禍においては、民主主義的な国ほど命と金を失った。コロナ禍は、「人命か経済か」というトレードオフではなく、人命も経済も救えた国と人命も経済も殺してしまった国を生み出したのだ。

 現在の劣化した民主主義が生き残るためには、民主主義の次の姿への脱皮が必要である。政治家は定期的な選挙に晒されるため、近くの世論に目を向ける傾向がある。日本では、急速な高齢化が進んでいるため、高齢者に忖度した、いわゆるシルバー民主主義が国全体を覆ってしまっているようだ。必ずしも高齢者が自分たちの世代のことしか考えていないとは限らないが、高齢者の人口比が上昇している以上、高齢者に不利な政策の提言や発言は、政治家にとってほぼメリットはない。さらに、日本でお金と時間を持つのは高齢者であり、若者が貧乏になってしまっており、お金も時間的な余裕もない状態になってしまっているのだ。このような状況では、シルバー民主主義の撃退が解決策にならないかもしれない。

 では、民主主義を再生するには、どうすればよいのだろうか?本書では、選挙なしの民主主義の形として、「無意識民主主義」を提案している。センサー民主主義やデータ民主主義、アルゴリズム民主主義とも言い換えることができる。これまで民意データを抽出するための唯一の方法であった選挙がデータ収集チャネルの一つに格下げされ、インターネットや監視カメラ、言葉や表情、さまざまなセンサーが人々の意識と無意識の欲望・意思を掴むあらゆるデータが収集される。これらのデータから自動化・機械化された意思決定アルゴリズムが各論点・イシューについての意志決定を導き出す。つまり、民主主義とは民意データを入力し、何らかの社会的意思決定を出力するルール・装置と考えるのだ。ここでの課題は、無意識の民意データが人の無意識に備わった差別的な考えや偏見が炙り出されて増幅される可能があることだ。機械学習アルゴリズムは、人間の思考や行動データから偏見や差別的思考・行動までも学んでしまう可能性がある。このような無意識民主主義によって、表題の選挙はアルゴリズムとなり、何ら責任を取らない政治家はネコでもよいということのようだ。

 これまで経済と言えば「資本主義」、政治と言えば「民主主義」と言われていたが、民主主義は重症に陥ってしまったのが現在である。この民主主義の再生にあたっては、本書のとおり、大胆な発想の転換により民主主義のゲームのルール自体を作り変えることにチャレンジする時なのかもしれない。そして、資本主義についても、貧富の格差は拡大する一方であり、所得の再分配を機能させるためには、民主主義の再生が必要なのではないか?

 

 

2022 Vol. 6:『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 – アメリカ70-90s「超大国」の憂鬱 -』

 

 

『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 – アメリカ70-90s「超大国」の憂鬱 -』 丸山 俊一+NHK「世界サブカルチャー史」制作班 著, 祥伝社, 2022

 

 本書は、「NHK BSプレミアム」で放送されている番組の書籍化である。「欲望の資本主義」シリーズの書籍化と同様、番組ではカットされた部分も含めて収録されている。本書では、1970年代から1990年代について、当時の映画からアメリカ社会を掘り下げようというものである。

 70年代のアメリカは衰退の時代であったが、この時代が今日の世界を形作る「種まき」の時代であった。この時代に、アメリカ人のアイデンティティを形づくるものとして大衆文化が政治にとって代わった。60年代後半から70年代の初めにかけて、自己中心主義と何ら変わることのない超個人主義が蔓延した。この極端な個人主義は、現代の新自由主義を助長し、当時の映画にあるファミリーの利益を第一に考える点や欲望に駆られるだけの存在は、現代の資本主義がもたらす競争社会の予兆でもあったのだ。そして、この時期のアメリカは、自分の信じたいことは、何であれ信じる態度を持つ、ファンタジーランド(幻想の国)であった。この時代を象徴する映画が『スター・ウォーズ』であり、ジョージ・ルーカスは映像の力で現実から夢の世界へ我々を連れて行ったのだ。

 80年代のアメリカ文化は、「レーガノミクス」と呼ばれる経済対策により経済の不調を乗り越え、自由な資本主義と物質主義を手に入れた。つまり、70年代の制限と低迷の時代を抜け出したのだ。一方、軍事活動に反対する核兵器凍結運動やエイズの蔓延に対する政府の無策を追求する活動もあった。そして、80年代のアメリカは、新自由主義的な市場経済と物質主義を受け入れ、賞賛するようになった。『ウォール街』という映画は、強欲な野望と自己中心的な考え方に囚われた人物が家族やコミュニティーを破壊するという自由な資本主義の台頭、市場原理主義の暴走への批判であった。だが、「強欲は善である。」という言葉に象徴されるように、アメリカの資本主義を称揚するとしてものとして受け入れられた。

 1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊とそれに続くソビエト連邦の崩壊により、90年代には冷戦が終結した。つまり、90年代は、明確な敵を見失った「ポスト冷戦」の時代である。これまでのヒーローものからスパイ映画が多く作られるようになった。一方、90年代、特に後半はWindows95の登場により、PCとインターネットが普及するようになった。情報化社会の幕開けである。そして、現代社会を見ればわかるように、インターネットを中心とした情報化社会の進展は、世の中を一変させた。だが、ネット上に溢れた情報は、真実と虚偽も不明なものになっている。現代では、『マトリックス』のように自分が現実に生きていると思っている世界が、コンピューターが作り上げた仮想現実であるということも体験できる。自分の分身として、仮想空間上でアバターが生活することができる。『マトリックス』の世界は、現実と仮想空間の区別がなくなった世界である。90年代は、アメリカの「美徳」と考えていた、無邪気なひたむきさが「幻想」であることに気づき、その結果の喪失感が広がっていた一方で、様々な新技術が生まれていた時代なのだ。

 サブカルチャーの意味は、メインから零れ落ちたものを指している。本書では、メインから零れ落ちたものは、「欲望」ということなのであろうか?

 ファンタジーランドとしての「幻想の70s」から停滞と無力感から脱出を目指す、「葛藤の80s」、そして、情報化社会の進展により、バーチャルとリアルの世界に引き裂かれそうになりながらも生き抜いていかねばならない「喪失の90s」。

2022年の現在を見てみると、「レーガノミックス」による新自由主義の影響が40年以上経過した現在でも色濃く残っている。だが、こと日本においては、慢性的な不景気と価格上昇という40年前の当時克服したはずのスタグフレーション的な状況に陥っているようだ。もはや日本は経済大国ではないようだ。日本はどうなっていくのだろうか?少なくともわれわれは、表面的な情報にとらわれず、問題の本質を見極める視点を持つことが必要である。

 

2022 Vol. 5:『世界システム論で読む日本』

世界システム論で読む日本』 山下範久, 講談社選書メチエ, 2003

 

 本書は、もともと世界システム論では、「非西洋でありながら、唯一近代化を果たし、植民地化をまぬかれた国」としての日本は例外的なものとして扱われていたことに対し、新しい世界システム論を提起しようとするものである。

 世界システム論は、資本主義か社会主義かというイデオロギー対立が冷戦という実体として見え、世界資本主義には「外部」は存在せず、米ソ対立のダイナミズム自体が資本主義世界経済の論理によって規定されていると位置付けた。そして、世界システム論は、資本主義世界経済の全体性とそれがもたらす貧富の二極分解傾向を強調し、南北対立において世界を解釈する視角を提起していた。今日、我々は地球規模の富と権力の不平等の問題に直面している。しかし、その後のグローバリゼーションの浸透によるヒトの移動と情報の流通、資本の流動性の加速により、「南」属するのがどこか、誰かもはや自明ではなくなってきているのだ。

 資本主義世界=経済では、中核と周辺との二極的な関係が維持され、二極間の格差は強化される。そして、個々の社会が占める地位は、持続性がなく、周期的に組み替えが生じる。これは、システムの抽象的構造と具体的編成との間の論理的区別であると同時に長期的と中期的な時間単位の区別でもある。ここでは、さまざまな周期を具えたいくつかのダイナミズムが複合的かつ相乗的に作用し、システム内の位置づけに変化が生じる。このような複数の時間系の重なり合いが構成する状況を「複合状況」と呼ぶ。

 近代世界システムには、既存の周辺の荒廃がシステム全体の行き詰まりを導く前に、新しい周辺を作りだすためにシステムそのものを拡大するという外部世界の「包摂」というダイナミズムがある。この「包摂」の概念と「複合状況」の概念が日本の近代化を考える要素となる。日本が近代化を開始した十九世紀は、西洋の列強による世界分割の最終局面であり、非西洋の社会は中核に搾取される周辺に向かう傾向にあった。

 この考えからすると、日本は包摂の過程に組み込まれることにより、発展に向かうのではなく、従属に向かうはずであった。ここで、複合状況の概念を介在することにより、システムの長期的構造と中期的編成が区別され、従属論とは別の帰結に至った。すなわち日本は、システムの外部に出てその周辺化の構造的圧力から逃れたのではなく、システムの諸過程の重なり合いが作りだすヒエラルキーの組み替えに乗じて近代化したのである。やはり、日本が近代化したことは例外であり、中核と周辺の間に位置する世界の半周辺であったのだ。

 本書では、日本の近代化については例外的なものであるという結論になるようだ。ここで私見を述べると、日本は近代化の途上で、帝国と定義されていた清国やロシアと戦争をしている。本来は、この戦争に敗北し、従属に向かうはずであったものが、既に帝国としての国力を失いつつあった清とロシアは日本との戦争に敗れた。この結果、日本は帝国に従属する周辺にならず、かといって中核に位置付けられる帝国にもなっておらず、半周辺となったのではないだろうか?