TechnologyとIntelligenceに憧れて

外資系ネットワーク・エンジニアの独り言。

2022 Vol. 5:『世界システム論で読む日本』

世界システム論で読む日本』 山下範久, 講談社選書メチエ, 2003

 

 本書は、もともと世界システム論では、「非西洋でありながら、唯一近代化を果たし、植民地化をまぬかれた国」としての日本は例外的なものとして扱われていたことに対し、新しい世界システム論を提起しようとするものである。

 世界システム論は、資本主義か社会主義かというイデオロギー対立が冷戦という実体として見え、世界資本主義には「外部」は存在せず、米ソ対立のダイナミズム自体が資本主義世界経済の論理によって規定されていると位置付けた。そして、世界システム論は、資本主義世界経済の全体性とそれがもたらす貧富の二極分解傾向を強調し、南北対立において世界を解釈する視角を提起していた。今日、我々は地球規模の富と権力の不平等の問題に直面している。しかし、その後のグローバリゼーションの浸透によるヒトの移動と情報の流通、資本の流動性の加速により、「南」属するのがどこか、誰かもはや自明ではなくなってきているのだ。

 資本主義世界=経済では、中核と周辺との二極的な関係が維持され、二極間の格差は強化される。そして、個々の社会が占める地位は、持続性がなく、周期的に組み替えが生じる。これは、システムの抽象的構造と具体的編成との間の論理的区別であると同時に長期的と中期的な時間単位の区別でもある。ここでは、さまざまな周期を具えたいくつかのダイナミズムが複合的かつ相乗的に作用し、システム内の位置づけに変化が生じる。このような複数の時間系の重なり合いが構成する状況を「複合状況」と呼ぶ。

 近代世界システムには、既存の周辺の荒廃がシステム全体の行き詰まりを導く前に、新しい周辺を作りだすためにシステムそのものを拡大するという外部世界の「包摂」というダイナミズムがある。この「包摂」の概念と「複合状況」の概念が日本の近代化を考える要素となる。日本が近代化を開始した十九世紀は、西洋の列強による世界分割の最終局面であり、非西洋の社会は中核に搾取される周辺に向かう傾向にあった。

 この考えからすると、日本は包摂の過程に組み込まれることにより、発展に向かうのではなく、従属に向かうはずであった。ここで、複合状況の概念を介在することにより、システムの長期的構造と中期的編成が区別され、従属論とは別の帰結に至った。すなわち日本は、システムの外部に出てその周辺化の構造的圧力から逃れたのではなく、システムの諸過程の重なり合いが作りだすヒエラルキーの組み替えに乗じて近代化したのである。やはり、日本が近代化したことは例外であり、中核と周辺の間に位置する世界の半周辺であったのだ。

 本書では、日本の近代化については例外的なものであるという結論になるようだ。ここで私見を述べると、日本は近代化の途上で、帝国と定義されていた清国やロシアと戦争をしている。本来は、この戦争に敗北し、従属に向かうはずであったものが、既に帝国としての国力を失いつつあった清とロシアは日本との戦争に敗れた。この結果、日本は帝国に従属する周辺にならず、かといって中核に位置付けられる帝国にもなっておらず、半周辺となったのではないだろうか?