TechnologyとIntelligenceに憧れて

外資系ネットワーク・エンジニアの独り言。

2022 Vol. 3:『ブルシット・ジョブークソどうでもいい仕事の理論』

ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論

 

『ブルシット・ジョブークソどうでもいい仕事の理論』 デヴィット・グレーバー著, 酒井隆史, 芳賀達彦, 森田和樹訳, 2020, 岩波書店

 

 著者のグレーバーは、日々の生活の中において多くの人が感じることが多い、「仕事の存在理由について、その仕事を毎日こなす本人でさえ確信できないほど、完璧に無意味な仕事」をブルシット・ジョブと定義し、現代社会における矛盾を投げかける。仕事、労働、働き方とはどうあるべきものなのか?

 グレーバーは、ブルシット・ジョブを以下の五つに分類している。

 ・取り巻き(flunkies)

だれかを偉そうにみせたり、だれかに偉そうな気分を味わわせたりという、ただそれだけのために存在している仕事

 ・脅し屋(goons)

欺いたり圧迫を与えたりすることで相手の利益になるとは思えないものに誘導するような自分の仕事がなんら社会的価値をもたないし存在しないほうがマシだと感じている仕事

 ・尻ぬぐい(duct tapers)

組織に欠陥が存在しているために存在している仕事のために雇われた人

多くはだれもあえて修正しようと気にかけてこなかったシステム上の欠陥の始末

 ・書類穴埋め人(box tickers)

ある組織が実際にはやっていないことをやっていると主張できるようにすることが主要ないし唯一の存在理由であるような被雇用者

表向きの目的達成になんら寄与せず、実際には目的達成の足を引っ張っていることを認識

 ・タスクマスター(taskmasters)

もっぱら他人への仕事の割り当てだけからなる仕事

他者のなすべきブルシットな業務の生成と監督、全く新しいブルシット・ジョブをいちから作り出すこと

 

 ブルシット・ジョブの問題は、その仕事をする人に道徳的・心理的影響を与えてしまうということである。ブルシット・ジョブという意味のない仕事に就くことにより、実質的にはなにもせずに高額の賃金を得る人々への影響である。ブルシット・ジョブに就いた人は、役に立つから雇用されたかのように扱われ、実際にそうであるかのように調子を合わせてふるまう。それと同時に自分が雇われているのは、役に立つからではないことを自覚するのだ。これにより、個人の自尊心を損ね、意味のある影響を世界に与えることのない人間は、存在するのをやめてしまうという方向に向かってしまう。

 人が仕事をすることで得られる最も重要なものは、生活のためのお金と世界に積極的な貢献をする機会であることであり、その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そうして作り出される社会的価値が高ければ高いほど、それに与えられる報酬はより少なくなるという矛盾に直面する。特に他者のケアにかかわる仕事に従事すると、ほとんど給料がもらえず借金がかさみ、自分の家族の面倒さえ見られない状態に陥る。これに対して、いなくなっても日常業務に何ら支障がないようなブルシット・ジョブに携わっている人々が多額の報酬を得ているのだ。

 我々が従事している労働の大多数は、生産的であるというよりはケアリングであるという。このケアリング労働は、他者に向けられたものであり、ある種の解釈労働や共感、理解が含まれている。つまり、本来労働は、社会的便益を伴うものであり、そこで得られるであろう便益に見合った報酬が得られるべきである。にもかかわらず、経済のおよそ半分がブルシットから構成されてしまっている。あらゆる人ひとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを制約なしに自らの意志で決定できるとすれば、今よりも効率的な労働配分が実現できるであろう。そして、1930年にケインズが予測した、テクノロジーの進歩によって、週15時間労働も達成できることであろう。

 そのためにも所得格差を引き起こした要因の一つと考えられる、新自由主義からの脱却が必要である。