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2020 Vol. 6 『善と悪の経済学 -ギルガメッシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠-』 トーマス・セドラチェク

善と悪の経済学

 

『善と悪の経済学 -ギルガメッシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠-』 トーマス・セドラチェク 村井章子訳, 東洋経済新報社, 2015

 

 本書は、現代の経済学が、文化の成果を表すものであり文明の産物ととらえ、古代の神話の中に経済的な思想を探り、逆に現代の経済学の中に神話を探るものである。このため、本書は、経済学の物語を紡ぎながら、「善」と「悪」の観点から神話を掘り下げていく。
 既に4000年以上も前のギルガメッシュ叙事詩では、都市の建設と共に分業と富の蓄積が始まり、自然が資源の供給元になり、人間自身の利己的な自我が解放された。そして、旧約聖書では、ギルガメッシュ叙事詩とは反対に自然は善の象徴であり、人工的な都市文明は悪を意味していた。さらに、旧約聖書の神話の中には、景気循環が見受けられ、主の言葉に従っていれば国は栄えるが、そうでなければ危機に見舞われると倫理的に説明している。この時代の貨幣は、倫理規範、信仰、象徴主義、信用と結びついており、最初の通貨が担っていたのは、信用であった。
 この時代までは、神話、信仰、宗教の教義が世界を説明するための要素であった。そこに科学時代が到来し、主観の入り込む余地のない方法でものごとを説明することをめざすようになった。そして、経済学は、周到に選ばれた仮定から出発し、すでに仮定の中に含まれていた結論に不可避的に到達するというプロセスを踏むことになった。このプロセスでは重要なのは結論ではなく、仮定である。
利己心や自己利益の追求と市場の見えざる手によって国の富も個人の富も形成されるとする説は、アダム・スミス以前から存在するものであった。この市場の見えざる手という発想は、倫理の探求から生まれたものである。だが、現代の経済学は数学にとらわれ倫理を無縁の学問になってしまった。スミスの遺産は、倫理の問題を経済学に含めるべきであり、それが経済学の重要な問題であるとしたことである。
 文明や人類の本質は、つねにより多くの欲望を求めることである。そして、満たされないことへの不満は進化の推進力であり、市場資本主義の原動力である。また、経済学では、人間はつねに効用の最大化を図ると考える。この効用というのは、欲望も言い換えた言葉と言ってもよいであろう。満たされた欲望は新たな欲望を生み、結局我々は欲しがり続けるのだ。そして、経済学における重要な概念として、もっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動するホモ・エコノミクスという概念と何かの行動に駆り立て、合理性を失わせ、人生に目的や意味を与えるアニマルスピリットという概念がある。人間の位置づけは、この2つの概念の間のどこかにあるのだ。
 現代社会は、終わりなき成長(進歩と言い換えてもよい)への期待を前提としているようだ。古くは、進歩が継続する時期を過ぎたらそれ以上の富を望まない定常状態に入ると思われていた。だが、人間の気まぐれや不足の感覚が新しい発見や新しい活動の原動力となる。このような創造的破壊により、これまで完璧に機能していたものを新しいものが押しのけていく。これが資本主義と自由の原理である。
 今日の主流派経済学では、市場の見えざる手が個人の悪を全体の幸福に変えるので、個人の倫理には関わらないという立場から善悪を含めた倫理学社会学を切り離そうと考えている。そして、その代わりに経済学と人間の行動の数式化が進み、現実世界を仮説と数学的モデルで説明しようとするようになってしまった。だが、歴史を通じて、倫理と経済学は緊密に関連づけられ、互いに影響を及ぼしている。この市場の見えざる手は、個人の悪を全体の善に転換する働きがあり、既に古代ギリシャ人もその原理を知っていた。
 あらゆる理論は役に立つ虚構であり、神話であり物語である。それでも経済理論は人間と世界について何らかの真理を語っているものと信じられている。すべての状況に当てはまるモデルが存在しないのであれば、常に新しいモデルや理論が構築される。この新しい理論は現在の理論を駆逐し主流的なフレームワークとなる可能性を秘めている。
 今我々が直面しているのは、常に経済が成長するという前提にたった、成長資本主義の危機である。これまでのように経済が成長している状態では、富の分配のような難題は問題にならなかった。だが成長が止まった現在、これまでとは異なる考え方をしていくことが必要となるのではないか?それは、経済学に再び善悪の問題のような倫理学社会学を取り込み、インスピレーションのような感性に従うような考え方ではないか?